〜第6回〜
どうわはしょうせつに てんしょくした。




今回はこの昔話を題材にして、童話というメディアの変化を見ていきましょう。
じつは、ここで「残酷グリム〜」が誕生したカラクリを解明することができます。

みなさんは、昔話の「さるかに合戦
[注1]」の内容を覚えていますか?
カニがサルにリベンジするって話ですね。
じつはこの「さるかに合戦」、現在では主に2つのバージョンがあるのを御存知でしょうか?
「親ガニ、サルは両方とも死なない」というのバージョンと
「親ガニ、サルの両方とも死ぬ」というバージョンでございます。

どうして2つのバージョンがあるのかというと、
「サルがカニを、子ガニと仲間たちがサルを、ブッ殺すのは教育上よくないから」という意見があるからです。
そういった理由から、今では「死なないバージョン」が全体の主流になっているようです。

では、教育上よろしくないとされる「死ぬバージョン」はどのように書かれているのでしょうか。
(わざわざ探して買ってきた)「死ぬバージョン」には、カニの死ぬシーンがこう書かれています。


 まだ あおく かたい みを「えいっ!」と、なげられ 
 かには ぺしゃりと つぶれて しんでしまいました。

                  (ひさかたチャイルド発行 
                         「さるかに」 わらべきみか著)


どうでしょ?
意外とあっさりしてて、お世辞にも残酷とは言えませんね。
それでも「教育上よくない」と言われてるンだから、こりゃあもうお笑いです。


ここで注目すべきことがあります。
童話という物語ジャンルは、近代以降「語られる」ことより「読まれる」ことが圧倒的に多くなったという現象です。
童話は近代に入ってから、「聞く物語」から「読む物語」に変わったンですね。
何故なンでしょう?

近代になって「印刷技術」と「紙の生産技術」は、ものすごいスピードで発展していきました。
これによって「童話」というジャンルは、その過程で「口頭メディア」から「出版物メディア」に変化したのです。
さて、これまで「耳で聴いていた物語」が「目で読む文章」に変わった場合、
「童話」には、一体どういう変化が起こるのでしょうか?

簡単です。
それは「速さの変化」です。
当然、語られるのを耳で聴くより目で読むほうがはるかに速いですね。
かつては20分ほどかけて味わった物語も、目で追うと5分で終わってしまう。
昔話や民話を読むときによく感じるある種の物足りなさは、すべてこれが原因です。

小さなときに読んでもらった物語を今になって読み返してみると、すごく薄っぺらく感じてしまいます。
活字になって目で読まれる童話は、
音も、抑揚も、緩急も、メリハリも、間もなくってしまい、
いってしまえば骨格標本のようなものに感じてしまうのです。
そこで大人は子供の頃に味わった興奮を再現しようと、味気のない物語に肉付けをしようかと試みます。
肉付けにどんな方法を使うのかというと、
細かい描写や状況説明、いわゆる「ディティール」というものを補充していくンです。

たとえば「白雪姫」の場合、お城はどんなところにあるのか、
どのくらいの大きさなのか、家臣は何人くらいいて、
小間使いは何人くらいいるのか、料理はどのようなものが出てくるのか、
また「鏡よ、鏡…」とお后が呼びかける鏡は、どのくらいの大きさでまわりにはどんな彫刻が施されていて、
どんな部屋のどんな場所に置かれていたのか・・・などを細かくリアルに描写していくワケですね。

「目で読む」行為に耐えられなくなった「童話」はディティ−ルが加えられることになり、
まったく別の物語として生まれ変わってしまいます。
例えるならば、クルマを改造してガンタンク
[注2]にしちゃうようなもンですね。


そんな感じで、「ガンタンク」になった「さるかに合戦」はどうなるのか興味はありませんか?
カフカ
[注3]の「変身」[注4]という小説に、「さるかに合戦」を彷彿させる1シーン[注5]があります。
これを「さるかに合戦」バージョンに書き換えてみましょう。

そのとき、カニのすぐわきに何かが飛んできて、目の前を転がった。
青い柿であった。
やんわりと投げられたらしい。
続いて、すぐ第2の柿が飛んできた。
おどろきのあまり、カニは立ちすくんだ。
それ以上逃げてももう駄目だった。
サルは爆撃の決意を固めていたからである。
 硬い柿を、さしあたってはぴたりとねらいをつけずにやたらに投げつけだしたのだ。 

青い柿は電気仕掛けみたいに地面を転げまわってぶつかりあった。
そっと投げられた柿のひとつが背中をかすったが、べつに背中には異常なく柿は滑り落ちた。

ところが、第2弾が背中にぐさりとめり込んだ。
 場所を変えれば、突然の信ずべからざる背中の苦痛は消えるとでもいうように、 
カニはさらに逃げようとしたが、まるで釘づけにされたような感じで
全感覚が完全に狂ったまま、その場で息絶えてしまった。


どうでしょ?
ディティ−ルを細かくすることによって物語にリアリティが生まれ、そに比例して残酷度は上がっているでしょ?
カニの死に様をさらに詳しく描写すれば、もっと残酷な内容に仕上がるでしょうね。
内臓がグジュグジュのパーに潰れた様子を描写したりとか。
しかし、詳細な描写を追求していくと、「童話」は「小説」になってしまうンですね。
困った困った。

「グリム童話」に細かい描写を加え、誇大解釈を盛り入れていく。
そして「小説」のような形になっていった・・・。
じつは、これが「残酷グリム童話」の正体だったのです。


〜今回のポイント〜

 童話は「聞く」から「読む」ものに変わるとき、
その文章は細かい描写を必要とします。
細かい描写をすると、
 それに比例して残酷レベルがアップしていきます。 
テレレテッテッテ〜ン♪(レベルアップの音)


     [注1]さるかに合戦:
       サルは柿の種を拾い、カニはおにぎりを拾ってきた。
       「柿の実ができたら拾って採ってやる」という条件で、
       サルとカニはおにぎりと柿の種をオンライントレード。
       しかし、サルは約束を破る。自分は柿を食べて、カニには青くて硬い柿を投げつける。
       カニは死んでしまう。
       激怒したカニの子供たちは、
       「うす」「はち」「くり」「ふん」などの協力を得て、サルにリベンジする、という内容。

     [注2]ガンタンク:
       「機動戦士ガンダム」に登場する地球連邦軍の戦車型モビルスーツ。
       肩に2基のキャノン砲、両手にはバルカン砲が装備されている。
       また、キャタピラにはジェット噴射機能が搭載されているので、飛行することも可。
       茶道の世界では、座ったままの姿勢で畳の上をズリズリと移動することがあるが、
       その様がこのモビルスーツのアイディアとなった、かどうかは定かではない。

     [注3]カフカ:
       1883〜1924。本名フランツ=カフカ。チェコスロバキア出身。
       実存主義文学の先駆者で、不条理と絶望を描いた(補足)と言われている。
       代表作は、「変身」「審判」「城」など、らしい。
       「ファイナルファンタジー6」のラスボスとは微妙に異なる。

     [注4]「変身」:
       主人公のグレーゴル=ザムザという青年が、朝目が覚めたら虫になっていた、という物語。
       それまで自分は貧乏家族の生計を支えてきた存在だったのに、
       虫になった瞬間から、急に家族から憎まれるようになり、殺されてしまう。
       自分が死んだあと、なぜか家族は幸せな生活を送り始めるという、
       非常に単純かつ理不尽な小説。
       グレーゴル=ザムザは、なぜ虫になったのか?どんな虫になったのか?
       家族から尊敬されるはずの存在だった主人公が、
       どうして殺されなければならなかったのか
       といった様々な疑問に対して、物語中ではまったく描かれていないので、
       様々な読者によって様々な解釈ができる、深読み大好き人間にはタマラナイ内容になっている。

     [注5]1シーン:
       ここで使わせてもらったのは、新潮文庫刊、高橋義孝訳のバージョンです。
       ちなみに「カニ」→「グレーゴル」、「サル」→「父親」、「柿」→「林檎」にすると原文になります。
       えっと、これって著作権侵害になるンでしょうか?


     (補足)不条理と絶望を描いた:
       カフカの「変身」は僕も大好きです。
       しかし、ある学説によると
       「グレーゴルが虫になったのは、当時カフカが新体操(を見る)ことにハマってたから」だそうです。
       カフカ自身の日記にも書かれてるそうなンですけど、
       運動オンチだったカフカは、身体が柔らかくクネクネウニウニ動く新体操の選手の姿から、
       「虫」の着想を得たそうなのです。
       だとすれば、「変身」という物語は
       グレーゴルが虫になったのは決して不条理などではなく、
       己の願望が現実化した結果、自分にとって悪影響を与えることとなったとも解釈できますが、
       そのへんについては安部公房の作品でも読んでいただければと思ってます。