第3回 レベル99とイデア論。
人間ってのは脳の機能を30%くらいしか使えないっていう話をご存知でしょうか?
その原因には、頭蓋骨の構造上に問題があるだとか地球の重力が関係してるとか、
そういう話がSFなんかで登場するンですけども、
もし人間の脳ミソが100%機能した場合、どうなるンでしょうか?
超能力を使えるようになるだとかニュータイプになるだとか、
まぁそんな感じになるンでしょう。
古代ギリシアの自然哲学者は、自然現象が神様とは違うところにあると考えました。
もちろんそれと同時期には、自然現象以外のものに関心を持つ哲学者もいました。
つまり人間そのものの存在に関心を持った、
要するに倫理観や人間の魂、人間の可能性などについて考えるようになったのです。
今回のカギを握る哲学者はプラトンという人で、
日常では「プラトニックな恋愛」というときぐらいでしか名前が使われることのない人です。
「プラトニック」というのは「理性的」という意味なのですけども、
プラトンは「人間の下半身には『欲望の魂』が宿っていて、
それを制御するのが『理性の魂』を持つ頭部」だと考えたそうな。
大人の世界です。
イキナリ脱線しましたけども、
そんなプラトンの考えでもっともメジャーなものに「イデア論」というのがあります。
このイデア論ってのはどんな思想なのかと言いますと、
ぶっちゃけたハナシ、「理想主義」というやつです。
「理想主義」って、なんだかいい意味で使われることがないですけども、
哲学における理想主義ってのは
「社会の進歩・発展、人間の人格の完成など、何らかの最高目的(理想)を設定し、
それを目指して努力することが人間の使命である」という考え方です。
要するに「この世には理想があるので、それを目指して頑張るべし」という考え方です。
もうちょっと突き詰めて考えれば、
人間はどこまで成長できるのか?と問いかけてるワケです。
「人間はどこまで成長できるのか?」
この考え、RPGと似てると思いません?
だいたいのゲームは、最大レベルが99だとしてもレベル50前後でクリアできますけども、
レベルがMAXになるまでまだまだ成長できるのですから、
プラトンのこの問いは
「レベルは99まで上がるから、それを目指してレベルを99まで上げろ」って言ってるのと同じようなものです。
ま、ゲームだから上限があるのは当然ですけども、
今回は「イデア論」とレベル99の考え方について、役に立たない考察をしてみましょう。
というワケで、まず「イデア論」について説明しましょう。
まず「イデア」とは何ぞや?とお思になることでしょう。
「イデア」が何かと言いますと、
超感覚的価値として判断の基準になるものだそうです。
なんのことかわかりませんがな。
ここで具体例を挙げます。
まず「犬」をイメージしてください。
そこであなたの頭の中に浮かんだ「犬の姿」が「イデア」なのです。
べつに犬じゃなくってサナダムシでもかまいませんけども、
イメージした瞬間に浮かぶビジョンが「イデア」ということです。
この世の中、犬と言えどもたくさんの種類がいます。
その様々な種類の犬の、「犬たらしめる要素」が複合されて
感覚的に頭の中で再構築されるというワケです。
それが「犬が犬であると思う根拠」であり、
「犬」であるという判断の基準であるというハナシです。
要するに頭の中で「犬」であるとイメージできるものは、
それだけ「犬」としての完璧な要素を持っている犬である、というワケです。
もちろん「イデア」は、様々なものに存在しています。
サナダムシにも。
しかし、アタマの中で「犬のイデア」は構成されても
実際に存在する「犬」は、すべての「犬としての要素」を持っているわけではないですね
(でもワタシは「犬」を連想した場合、実家で飼ってる犬くんが浮かぶので
ワタシの犬くんは「イデア」っちゅーことかい。親バカ炸裂です)。
つまり、この世に存在するものは
「イデア」の要素をすべては持っていない「不完全な存在」なのです。
それでもプラトンは言います。
「ビジョンが浮かぶンだから『イデア』はあるンだってば!!」と。
この世界は、不完全なものだけで構成されてるンだから、当然「不完全な世界」です。
それでも「イデア」のビジョンは存在するワケなので、
とうとうプラトンは「イデアの世界が存在する」と言っちゃいました。
我々の住む世界は不完全であり、
それは完全な「イデアの世界」から産み落とされたものだと言うのです。
つまり、まずはじめに「イデアの世界」が存在し、
それを基準にして「この世界」が存在するワケです。
で、どうにかして「イデア」に到達することこそが生きる目的なのだそうな。
少しイッてるような気がしますが、そこはご愛嬌。
もちろん「イデア論」は人間にも適用されます。
人間だってこの不完全な世界の住人なのですから。
そんな「イデア論」をゲームに当てはめてみましょう。
「イデア論」の欠点がボロボロと出てきます。
ゲームの世界は、我々の住む世界と同じく様々な法則に従った
プログラムによって構成されていますので、いわば「世界の縮図」と言えるでしょう(ちと言いすぎですか)。
そんなゲームの世界における「イデア」は
数値の上限(MAX状態とかカンストとか)を意味します。
この理屈で言うと、ゲーム世界での「人間のイデア」は、レベルMAX状態だということになります。
が、レベルMAXになっても、
すべてのステータスがMAX状態になるわけじゃありませんよね。
戦士がレベルMAXになると、体力が上限になるかもしれませんけど
ずーっと魔法は使えないままです。
どんなに強くなろうが、戦士は魔法使いにはなれないのです。転職でもしないかぎり。
つまり、「イデア」には達することができないのです。
じゃあ「イデア」に達することができないとしても、
プラトンが求めた「人間のイデア」とは何だったンでしょうか?
それは、「イデア」状態になることができない事実が
「人間のイデア」のビジョンを逆説的に説明しています。
世の中、どうにもならないことがたくさんあります。
つまりイメージできても、それが実現するわけないということです。
「男性は妊娠できる」とイメージしても、
身体の生理的理由から妊娠はできません。シュワちゃんじゃあるまいし。
男はどうあがいても妊娠することができないのです。
「人間には人間のイデア」として老若男女に共通する理想の姿があったとしたら、
男も女もないワケですよ。
性不一致で悩む人もいなくなるワケだ。
こういった男女の役割を無視した理想論に行き着いてしまったプラトンには、
「旧約聖書」に対する、ある考えが背景にあったと思われます。
「旧約聖書」によれば、はじめの人間であるアダムの肋骨から
女性であるイヴが造られたとされています。
このエピソードは現代的に考えれば、
男性原理と女性原理の「協力と分立」について語られているということになります。
しかし、実際のところ「イヴの創造」の話は
歴史上ずっと「喪失」のニュアンスで語られてきました。
つまりプラトンは、「人間は女性原理を喪失したことによって不完全体となり、
イデアの世界から追放された」と考えたンじゃないでしょうか
(ということは、プラトンの唱えた「イデアの世界」ってのは、
「エデンの園」と似たようなものなのかもしれませんね)。
ま、「イデアの世界」はひどい言い方をすれば、
聖書が生み出した「空想と観念の世界」とも言えます。
そのせいもあってか、「イデア」は現在では
「アイディア(idea)=考え」という言葉になっちゃいましたとさ。
結論:「イデアの世界」は「感覚的理想世界」である。
〜余談〜
プラトンは「イメージできるから『イデア』は存在する」と言いました。
これに反論する方法として「ウメボシの話」があります。
ウメボシをイメージするとヨダレが垂れてきますよね。
ここで重要なのは「ウメボシの味を知っている」ということです。
「ウメボシが酸っぱいからイメージするとヨダレが出る」のであって、
「ウメボシをイメージしてヨダレが出たから、ウメボシは酸っぱい」わけではありません。
つまり「思う」よりも前に「在る」ワケです。
こういう考え方を「唯物論」と言うそうな。