G.O.D〜目覚めよと呼ぶ声が聴こえ〜
RPG  96.12.20  イマジニア


 



 【すげぇタイトルだ】

  「ポケモン」の製作者として有名な田尻智氏は、
 ある著書(※)の冒頭でこのように述べています。

 「1枚の絵画を、当時の社会背景まで含めて、細かく検証、探求していく作業は、
 現代の僕たちに、深い知的刺激を与えてくれます。
 絵画を見るというより、まさしく読みとる、といったほうがいい行為なのです。」

  美術品鑑賞におけるこの行為は、
 美術専門用語で
アレゴリー(寓意)というそうで、
 僕らにとっては
深読みというコトバがお馴染みでございます。
 この行為によって、ゲームもまたその背景にある思想を読みとることができるのではないかと、
 田尻さんは言っているのです。   (※)「新ゲームデザイン」 1996年 エニックス刊

  「名は体を表す」とは言いますが、
 スーファミ作品の中で、
 タイトルだけでストーリーを想像させてしまう=深読みさせてしまう作品は、
 「G.O.D〜目覚めよと呼ぶ声が聴こえ〜」がベスト・オブ・ベストではなかろうかと僕は信じております。

  このタイトルが意味しているのは、そのまんまGOD=
でございますが、
 同時にそれは
Growth r Devolution(進化か退化か?)の頭文字を示しております。
 「人間が神に似せて造られたのならば、人間が進化した先にあるのは神という存在ではないか?」
 そんな哲学的テーマが、タイトルから伺えるのです。

  タイトルだけで大作っぷりを彷彿させるこの作品、
 製作陣もかなり豪勢でございます。
 愛媛県が誇る(?)劇作家、
鴻上尚史が総指揮。
 キャラクターデザインは、(当時)日本一連載本数の多さを誇っていたマンガ家、
江川達也
 そして音楽を担当しているのが、
デーモン小暮閣下

  ちなみに本作は、僕がスーファミソフトの中で発売日に買った
唯一のゲームであります。



 
【発売前からゴハン3杯】

  
僕が本作を発売日に買った理由。
 それは、このゲームの設定が
僕のツボにハマったからであります。


  物語が幕を開けるのは、
1999年7月
 (今となってはどうでもいい)
ノストラダムスの予言が起こるとされる頃。
 そんな予言なんか信じちゃいなかった夏休みの初日、
 少年こと主人公は、祖母の家まで自転車旅行に出発します。
 旅の途中、少年が偶然見てしまったものは、
 空から舞い降りた「恐怖の大王」こと
エイリアンが故郷の街を侵略する瞬間。 

  ・・・それから10年。
 エイリアンによって
壊滅させられた地球を舞台に本編がスタートするのです。
 2009年の近未来、
 生き残った人類がエイリアンに抵抗するための手段とは、
 
脳内に眠る潜在能力を覚醒させること。
 人間の脳は30%しか使っていないと言われておりますが、
 主人公たちは
未開の70%の領域を使うことで、エイリアンと戦っていくのです。 

  人間は
どこから来て、どこへ行くのか?
 眠れる脳を目覚めさせるという行為は、
神への反逆か?
 それとも人類が
進化していく一過程なのか?
 或いは人間が神から生まれたというのならば、
 
人間であることを捨てる行為は、真の意味では退化を意味するのか?
 そして、タイトル「G.O.D」に含まれる
 「
」そして「進化か退化か?」という意味と
 物語終盤で明らかにされる
第3の意味・・・。


  以上が
発売前に発表されていた情報でございますが、
 僕は、もうこれだけで
ゴハン3杯イケるほどの期待感を持ってしまったのであります。

  本作の製作が発表されたのは、スーファミ全盛期の94年後半だったと記憶しておりますが
 ひたすら発売延期を繰り返し、やっとこさ発売されたのは
96年12月
 スーファミの時代は既に過ぎ去り、人々は「FF7」の発売目前で頭がイッパイになってた時期でございました。



 
【駄作ではありませんが】

  「G.O.D」は駄作だというのが世間的評価でございますが、
 ゲームの基本的な部分はかなり丁寧に作られており、フツーに快適に遊べます。
 なのに本作がマイナス評価される理由。
 そのほとんどは
戦闘シーンにあるのです。


  1996年12月20日の夜(バイト上がり)、ゲームショップで「G.O.D」を購入ッ!
 発売を期待しまくった僕は、
 目ェ剥いてハァハァ言いながらカセットを本体に挿入ッ!
 そしてド肝を抜かれたのが、戦闘シーンの音楽。

 
ずんった(ずんった)♪ずんった(ずんった)♪
 
ずんった(ずんった)♪ずんった(ずんった)♪
 
てれれれれれれれ てれれれれん

  えーえー、そのショボさに
本気でヘコみましたともさ。
 さらにショボさを倍増させているのが、BGMの音量の割に大音量でカン高い効果音。
 これがまた、戦闘音楽のショボさに拍車をかけているといってもいいでしょう。
 戦闘シーン以外の曲はお世辞ヌキで名曲が多い(街のテーマは泣けるくらい良い!)のに、
 何故か
戦闘シーンの曲だけがヘッポコ
 確信犯ですか?

  他にも、
エンカウント率が高いくせに戦闘のテンポが悪いとか、
 オート戦闘が
バカすぎるので、コマンド入力(というよりもAボタン連打)したほうが
 
戦闘がはやく終わるなどの問題点もアリ。
 おまけに攻撃魔法にほとんど意味がないので、攻撃魔法キャラが単なるお荷物という痛すぎるゲームバランス。
 おかげでゲームプレー中の2/3は
 
ストレス溜まりまくりの戦闘シーンに費やすことになるのです。

  戦闘シーンについて、いちおうフォローしておきますと、
 本作の演出面は
意外と凝っています
 炎の超能力を使うと大地が焦げる、
 衝撃波を放つと地面がえぐられた跡が残る、などなど芸が細かい部分はけっこうありますし、
 仲間のミニスカギャルが突風攻撃を食らうと
 
パンツ見られて恥ずかしくなって動けなくなるとか、
 巨乳キャラの
乳揺れっぷりなど、
 
必要以上に気合の入った情熱すら伺えます。

  それはさておき、戦闘そのものは
 ゲーム中盤あたりから「
複合チャクラ」と呼ばれる
 
アビリティを使えるようになることで、けっこう面白くなってきます。
 これらのアビリティ、
 連続攻撃、ダメージ半減、属性追加攻撃、能力値UP、ステータス異常無効などなどの効果がございまして、
 どのキャラにどのアビリティを持たせるべきか?と頭を悩ませる戦略性もあって素敵です。
 もっとも、これらのアビリティを習得するのはカンタンすぎるゲームバランスになっているので
 (フツーにプレーしてても、ラスボスまでには全員がすべてのアビリティを習得できる)、
 
「FF5」のような面白さを期待すると
 間違いなく
肩透かしを食らうハメになりますが



 
【その物語】

  本作における戦闘シーンがどうこうというのは、
 実は僕にとっては
それほど気になることではありませんでした
 なぜなら当時の僕は、戦闘システムに少々難があっても、
 
ストーリーさえ良ければそれでオッケーという考えがあったからです
 (スーファミのRPGで評価されてるものには、そういうものも少なくない)。
 僕が
本作に期待していたのは、戦闘なんかよりもストーリー
 だから、戦闘のテンポやゲームバランスがどうこうってのは、
 
どうでも良かったのです。


  では、本作のストーリーはどのようなものなのでしょうか?
 まずは皆様、このゲームに登場する街の人々のことを想像してみてください。
 このゲームの舞台は、
エイリアンによって侵略され、荒廃した世界
 そこに住む人たちは、その
生き残り
 それを一言で表現するならば
絶望(あるいは「北斗の拳」)。
 そんな雰囲気を想像するのではないでしょうか?

  しかし、困ったことに
 本作の街の人々からはそういった感じは
ほとんど見受けられません
 名古屋(ゲーム中では「ミャアタウン」)では
みゃあみゃあ言うし、
 中国では
アルアル語。
 ロシアでは語尾に
〜だびっちとつく謎の方言。
 そう、
おちゃらけすぎたメッセージが、
 退廃的(であるはず)な世界観を
ブチ壊しにしているのです。

  他にも、エイリアンが生物兵器を作り出すために占領した動物園の看板が
 「ライオン 好物:サイコロ、恋の話(コイバナ) 特技:毛洗い」
 「ゴリラ ニックネーム:ゴリさん 特技:じゅんしょく」
 「トラ 特技:失恋」
 ・・・ってな具合でございまして、
 「地球が襲撃されて10年経ってるのに、どうして動物園に動物が残ってるンだよ!」
 という
ツッコミたい衝動すら完全撃沈させてくれるのです。

  まぁ、これなんかはまだ可愛らしいほうで、 
 神戸に行けば「昔、
ポートピアで殺人事件があった」と言われるし、
 赤道直下に本当に
赤い線が書いてある。
 なぜか「
あしたのジョー」ネタが何回も出てきたりとか、
 挙句の果てに「ドラクエ」「FF」を
皮肉ったメッセージがいっぱい登場。
 そのクセ、「FF5」のギルガメッシュを意識したキャラ「バットくん」が本気の本気で
笑えない
 などなど、本作のシリアスな物語を彩っているのは、
 ユーモアやエスプリとはとても言い難い
オヤジギャグなのです。

  それでも僕は必死こいてプレーした!
 この物語のテーマが語ろうとする哲学観を感じたかったから!
 物語の結末にスーパーどんでん返しがあることを期待してたからッ!

  脳の未開部分である「チャクラ」を覚醒させていくことによって、
 その過程で「神」と呼ばれる存在に近づいていく主人公たち。
 その現実に恐怖しながらも、人類を救うためにエイリアンと戦い続けるのです。


  ・・・
しかし
 その物語は次第に
オカルトチックなものになっていきます。
 ストーンヘンジやらナスカの地上絵やらイースター島があーだこーだ、
 古代超文明やらオーパーツがうんぬんかんぬんで、
 挙句の果てにエイリアンはかつて地球の住人で月に移り住んだとか、
 もうとにかく学研「
ムー」のノリで繰り広げられます。

  僕が想像していた「G.O.D」の物語とは、
 エイリアンに人間を照らし合わせることで
 「人間という存在」を弁証法的に見ていくという内容でした。
 が、その期待は見事に裏切られ、ひたすら
陳腐な展開で物語は進んでいくのです。
 さらに、その物語がどこかで聞いたことのあるものの寄せ集めくさい雰囲気がプンプンで、
 ストーリー上の意外性は
ハッキリ言ってありません


  ゲーム誌における本作の評価は、
 現代・近未来を舞台にした数少ないゲームであることから、そこそこ良いものでした。
 しかし、テンポが悪くてヘッポコ音楽な戦闘シーンに
 大作を謳ってる割に平凡すぎるシナリオ、こじんまりとしすぎたゲームの出来に
 ユーザーが「駄作」の烙印を押したのは、当然といえば当然のことでしょう。



  余談ではありますが、
 本作のプレー中に、僕を
絶望の底に叩き落したのが、
 「G.O.D」というタイトルに込められた
第3の意味の正体であります。

  本作には「ちいさなメダル」のようなアイテムとして「
おまんじゅう」が存在します。
 各地の土産物屋やダンジョンでゲットでき、
 メダル王ならぬ
まんじゅう王に会えば、「おまんじゅう」と引き換えにアイテムを貰えるワケです。
 で、この「おまんじゅう」、
 終盤では合体させることによりアイテムが合成できるようになるのですが、
 この瞬間、
タイトルが持つ3つ目の意味が明らかにされます

  そう、物語終盤で明かされる「G.O.D」とは

 ・
合体

 ・
おまんじゅう

 ・
どうなる?・・・だったのであります!!





 ・・・
ただのダジャレかよ!!






  
【演劇というジャンルが読み解く本作の価値】

  本作を総指揮した劇作家:鴻上尚史がどのような人物なのかは知らなくても、
 「10回10回クイズ」や「究極の選択」などの生みの親と言われれば、
 その感性の恐ろしさを僕らは知ることができます。
 が、そんな鴻上氏が作った本作は、
駄作であるのが世間的評価。
 その理由には、これまで散々述べてきたゲーム的欠点がございますが、
 それ以上に、
劇作家が作ったゲームというイメージと、
 僕らが
劇作家という人に求めるイメージとの
 
ギャップもあったのではないかと思うのです。

  劇作家の作るゲームに期待したもの、
 それは、これまで見たこともないような演出=
イベントシーンだったのではないでしょうか?
 ドットキャラによる演技、固定された視点を生かした表現、
 セリフの間の取り方や計算されたキャラの立ち位置、などなど。
 しかし、「G.O.D」のイベントシーンにはそういった舞台劇らしさは
感じられなかったのです。
 だからこそ、本作の評価はさらに低いものになってしまったと思うのです。

  では、本当に本作には演劇的要素は無かったのでしょうか?

 そこで、冒頭で述べました「アレゴリー」の登場でございます。
 本作を、ゲーム的視点ではなく、演劇的視点で見てみると
 このゲームの隠れた要素を発見することができるのであります。
 本作を、単に
駄作の一言で斬ってしまうのは勿体無いのです。 



  ・「異化(いか)

  「
異化」と呼ばれる演劇手法があります。
 「異化」とは、ブレヒトというドイツ人劇作家によって生み出された演劇理論で、
 観客を
敢えて演劇にハマらせない演出手法であります。
 ハマらせることが、娯楽でもっとも重要なことなのに
 それと真逆のことをするなんて、ヒネクレているとしか思えませんが、まぁ聞いて下さい。

  その背景には、ブレヒトの持つ社会主義思想と
 当時のドイツを取り巻くナチズムの存在がありました。
 ヒトラーが愛した音楽としてワグナーが有名ですけども、
 ナチスの思想支配の道具として、ワグナーの壮大な楽劇が利用されてたことに着目して下さい。
 ブレヒトの「異化」とは、
 ハマらせることで民衆の判断力をなくす効果(社会心理学でいう「流行崇拝」と同じ構造)のある
 
ワグナー作品の対極に位置するものでございまして、
 観客を劇にハマらせないことで、
 劇そのものを対象化→その観察を通して、
 
物事を批判的に観ること喚起させる目的があったワケです。

  で、「G.O.D」の中に登場する
 
クソつまらないギャグの数々
 もしかしたら
「異化」効果なのではないか?というのが僕の仮説であります。
 本作に出てくるネタは、
 「笑えないもの」ではなくて、「
意図的に笑えなくしている」可能性が考えられるのです。

  ブレヒトの「異化」が、ナチズムへの抵抗思想だったことは理解できるとしても、
 わざわざゲームに「異化」を持ち込む意味に疑問を感じる方も多いと思います。
 それはつまり、「G.O.D」はゲーム作品ではありますが、
 それだけで完結させてしまわずに
 「
本作が演劇の延長線上にあるという主張が込められてる」と解釈できるのです。
 ・・・わかりにくいか。



  ・「デウス・エクス・マキナ

  本作のラスボス戦の演出は
かなり微妙です。
 物語の真相が明らかにはなるものの、
 その見せ方があまりにも唐突すぎるため、シナリオ的には説得力があっても、
 物語構成の上では
かなり強引な感じがするのです。
 こんなラスボス戦に対するイメージを激変させるキーワードがあります。
 「
デウス・エクス・マキナ(Deus ex machina)」がそうです。

  「デウス・エクス・マキナ」とは、
 古代ギリシアでよく利用された演劇の物語スタイルのことであります。
 ラテン語で「
機械仕掛けの神様」という意味で、
 劇中で大ピンチになったとき、
 
神様がすべてを解決させることで物語を収束させるという手法を指します。

  ネタバレになるので詳しくは書けませんが、
 本作における物語の収束方法が「デウス・エクス・マキナ」だとすれば、
 ラスボス戦の強引な展開は、
 
思わず膝をポンと叩きたくなるくらい
 
サイコーにイカス演出であることが発覚するのです。
 やってくれるぜ、鴻上サン!!



  ・「道化

  シェイクスピアの作品には、「
道化」というキャラがよく登場します。
 歴史的に見れば、道化を従えるということは、一種のステータスシンボルでありましたが、
 演劇においての道化は、王様のそばで愚か者のフリをすることで、
 絶対権力者である王様を間接的に表現する役割を果たしております。

  本作のタイトル「G.O.D」をドイツ語読みしてみると、「げー・おー・でー」。
 それを逆にして早口読みをしてみましょう。
 でー・おー・げー。
 でーおーげー。
 でおーげ。
 でぉーげ・・・。
 ・・・
道化!!??

 「タイトルを逆さまから読むというのは、
 このゲームの存在を、逆説的にゲームとしてではなく演劇的視点で見ることを意味し、
 それが道化になるということは、
 このゲームそのものがゲームという存在のアンチテーゼであることを意味していたんだよ!!」


 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!!!」

  ・・・ごめんなさい、ウソです。
 ま、ノストラダムスのネタということで勘弁をば。



  同じ脚本、同じ演出の舞台でも、
 
上演の度に変化していくのが、演劇の魅力であるよく言われます。
 同じ物を繰り返し見ることによって、
 
舞台作品そのものの変化一緒になって浮き上がってくる「何か」こそが、
 
その演劇の持つ最大のテーマ性だというワケです。

  この理屈に当てはめれば、
 本作に込められたテーマが、与えられるもの(表面的なもの)ではなく、
 
プレーヤーが読み取るもの(深層的なもの)であることが浮かび上がってきます。
 このゲームを演劇的視点で味わうことで、
 それを通して僕たちが何を感じ、考えるかという構造になっているのです。
 つまり本作の真価は、「G.O.D」というゲームそのものにあるのではなく、
 
それを通して見る「何か」を探すという行為にあると言えるでしょう。
 そして浮き上がってくる本作の真のテーマは、
 「神」とか「進化・退化」などではなく、
 「
人間が社会の中で生きるということ」だというのが、
 発売されてから10年近くが経った現在、僕の中にある見解であります。


  本来ゲームであるものを
 わざわざ演劇的視点で見るというのは
本末転倒でありますが、
 本作には、そうすることによっていろいろなことを発見できるような
 ギミックが施されているのは間違いありません。
 そう、「G.O.D」は、ゲームに演劇的論法を持ち込んだ
壮大な実験作品だったのです。