イーハトーヴォ物語
ADV  93.3.5  ヘクト


 



  わたしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です
  風景やみんなといっしょに
  せはせくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈のひとつの青い照明です
               「春と修羅」序


  
なんともよくわからん文章で幕を開けるこのゲームは、
 国語の教科書でさんざんお世話になった文学作家
 
宮沢賢治の作品を扱った、おそらく地上で最初で最後のゲームでございます。

  
宮沢賢治の名前くらいは誰でも知ってることでしょうが、
 その名を聞いて何を連想するかは人それぞれだろうと思います。
 僕の場合、「国語の教科書に載ってた坊主でギョロ目の人」とか
 「なぜかよく文章が引用される人」くらいのイメージしかございません
 (僕の友人に言わせれば、「妹萌えのジャンルを築いた偉人」とのコト)。
 なんてことを言うと、
 激しく力んで宮沢賢治を愛する人たち(通称:ハリケンジャー)に
 「お前は宮沢賢治の魅力をまったくわかってない!」と叱られそうですけど、
 知らないものは仕方がない。
 まぁ、それでも
銀河鉄道の夜風の又三郎」などの
 作品名くらいは知ってるので勘弁していただきたいところです(お話の内容は本気で知りません)


  本作は、そんな宮沢賢治の作品群をベースにしたアドベンチャーゲームであります。
 でも注意してもらいたいのは、アドベンチャーゲームつっても、
 昔ながらのコマンド総当たり式のものでもなければ、サウンドノベルでもない点でございます。
 それが何かと尋ねたら、
 
戦闘シーンのないRPGだと考えていただければオッケーなのでございますがな。
 ・・・それって
ただのお使いゲームですか?
 一瞬でもそう感じた人、エライです。
 
イエス、むしろ大正解だ
 本作は、ダラダラと歩いて人々の依頼を解決していくだけという
 
お使いゲームとしての条件を完璧に充たしたシロモノなのであります。

  このお使いゲーム・・・もといこの物語は、
 「
」という主人公が蒸気機関車に乗って
 「
イーハトーヴォ」という街にたどり着くところから始まり、
 宮沢賢治のなくした「
手帳」を探すことが目的になります。
 この一連の流れについてですけども、
 主人公である「私」という存在が、イコール「プレーヤー」というのはわかるとして、
 いま「私」がいる「イーハトーヴォ」という町そのもの自体が、
 何時の時代なのか、何処に存在するのか、「私」が何故そこにたどり着いたのかについては、
 一切語られることはありません。
 もうしょっぱなから
謎だらけです。
 が、考えたところでゲームの進行には何の影響もないので、考えたところで無意味です。
 素直にゲームを進めましょう。


  物語は全9章から成っており、
 各章のタイトルに
宮沢賢治の童話作品名が冠せられていて、
 退屈なお使いを通して、彼の
童話を追体験できる内容になっています。
 でも困ったことに「宮沢賢治の童話を追体験」つっても、
 原作を知らなければ、どいつもこいつもよく理解できないままお話が終了してしまうため、
 
非常に嫌な気分を味わうハメになることを保証します。
 その理由は、いろんな人が
死にまくるからに他なりません。
 
ウサギは死ぬし少年は死ぬ
 
キツネが死ねば好青年も死ぬ
 ハッキリ言って「童話だから」という理由で、
 癒しがどうこうだとかそんな甘ったるい気持ちで挑めば、
 クロスカウンターを喰らった気分になること間違いナシ(嬉しくねぇ)。
 まぁ、もともと宮沢賢治の作品には、
 ディープでダークなことが淡々と書かれてると言われますけど、
 宮沢賢治ワールドの知識のない者にとって、
 このノリは
違和感覚えまくりアンド苦痛でございます。
 えぇえぇ、どーせ僕は宮沢賢治のことなんざ知りません。

  そんな重めの物語とは対照的に、ゲームの進行は詰まることがありません。
 イーハトーヴォの街の情報提供施設(羅須地人協会、役所、猫の事務所)に行けば、
 
どこで何をすればいいかを教えてくれる超親切設計。
 依頼を聞いて、情報施設に行って、目的を果たせばすべてオッケー。
 「地球が丸いのは、すべてが丸くおさまる証拠だ」とは言いますが、
 これほど簡単にすべてが片付くゲームもそうそうお目にかかれるものではありません。
 しかも1度訪ねた場所は、二度と行かなくて良い(正確には
行けない)ので、
 何も考えずフラグを立てるだけでオッケーという
 賢治道一直線で自由度のカケラもないストーリー展開。
 おまけに数時間でクリアできてしまいます。
 ・・・これでゲームとして成り立っているのでしょうか?

  はい、これは立派なゲームです。
 しかも、かなり
知的な娯楽性に溢れたゲームだと僕は考えています。
 ダメ押しに言わせてもらうと、
 「イーハトヴォ物語」は、
 「(自己あるいは他者が)生きることと死ぬこと」について
 転じて「死せる者がかつて生きていたという過去が、
 其の者がいない現在にどのような意味を持ったうえで、自己に何をもたらしているか?」という
 なんとも小難しい哲学的なネタを、
 真正面からプレーヤーに問い掛けた初のゲームなのです。
 まぁ、噛み砕いて言えば、
 「親父の小言はあとで効く(by白木屋グループ)」と思っていただければ問題ないですわ。

  ゲーム最終章にて「現象第四次」と呼ばれる不思議な世界に誘われた「私」は、
 宮沢賢治本人から「
生と死について」いくつかの問答を受けることになり、
 プレーヤーはエンディングを迎えることとなります
 (答えに応じて結末は変わるが、どう答えてもエンディングにはたどり着けます)。
 いやぁ〜、なんとも哲学的でございますな。
 うんうん、こんな重〜いテーマを扱ったゲームは、そうそうありません。
 嗚呼、素晴らしき「イーハトーヴォ物語」。


  ・・・
まぁ待てや
 このゲームが哲学的なのはよくわかりましたよ。
 でもね、ふと我にかえったとき、とんでもない事実に気がつきます。
 何度思い返してみても、
物語の謎がまったく解けていないんですよ!
 いや、「私」という存在が「イーハトーヴォ」の世界にやってきたことや、
 宮沢賢治の7つの手帳の持つ意味というものは、
 わざわざ無理して深読みする必要はないから、
 おそらく
物語の謎自体にはおそらく何の意味もないのでしょう。
 それでも、プレー後に残ってしまう
 この妙な
モヤモヤ感は、いったい何なんだッ!?
 うがーッ!!

  この
どーしょーもない理不尽感が、
 「宮沢賢治作品を読んでみたい」という知的欲求を掘り起こしてしまったのなら、
 それこそ
ゲーム製作者の思うツボなのでしょう。
 なぜなら、それは「ゲームの中の宮沢賢治ワールド」から「現実の宮沢賢治ワールド」に、
 迷い込んでしまうことを意味するからです。
 そして僕らは気づきます。
 
ただのゲームプレーヤーにすぎない僕たちが、
 
イーハトーヴォ(※)の街を訪れた「私」という存在と
 
完全に同化してしまうという事実に

  ※ゲーム中ではまったく語られないことだが、
   宮沢賢治は、故郷・岩手を「イーハトーヴォ」と呼んでいたらしい。
   転じて、イーハトーヴォは「宮沢賢治ワールド」を意味するそうな。


  世の中なかなか便利なものでございまして、
 このご時世、インターネットで「宮沢賢治」を検索すれば、
 
ネット図書館なるもので宮沢賢治の著書に触れることができます。
 とりあえず、各章のタイトルになっている作品を読んでおきたいのはもちろん、
 個人的にオススメしたいのは、
 ゲーム中、イーハトーヴォの駅の横で、
 新型信号と旧型信号がウジウジと展開するラブロマンス「シグナルとシグナレス」。
 それと、ゲーム終盤で某施設が閉鎖する理由が明かされる「寓話 猫の事務所」
 (ゲーム中の重要キャラが登場する「ポラーノの広場」は、クソ長いので要注意だ!)。

  つーことで、予備知識をちゃんと身につけたうえで本作を再プレーしてみると、
 あららビックリ。
 前回プレー時のときとは
まったく違った印象がプレーヤーを襲います。
 その正体とは、前回プレーしたことによる「
経験」と
 実際に宮沢賢治作品を読んだという「
現実」が呼び起こす、
 なんとも言葉にし難い「
デジャヴ感」なのであります。
 そう、本作の真価は
2度目のプレーによって初めて発揮されるのです。

  前回プレー時には、淡々とやりこなしてきたイベントも
 予備知識が身についたことで俄然重みが違ってきますし、
 意味のないことをベラベラ喋るだけの街の住人たちも
 僕らに「生きている喜び」を実感させてくれます。
 さらには、お世辞にも快適とは言えないインターフェイスの類や
 チンタラ遅いキャラの移動速度、ゲーム性すら崩壊している完全な一本道な展開などの
 マイナス面すらも「これはこれで調和がとれているかも」などと思えてくるようになります。
 言いすぎかもしれませんけど、これ事実です(
主観的に)。

  本作を構成する様々なもの(
主にゲームとしての欠点)を、
 どういうワケか見事に融合させている最大の要因は、じつは「
サウンド」だったりします。
 つきなみな表現しかできませんけど、
 「イーハトーヴォ物語」の音楽は、
かなり良いです
 (なかでも、ギターソロではじまる「イーハトーヴォの街のテーマ」は一聴に値する!)。
 ゲーム全体を通して流れる曲の数々は
 基本的にどいつもこいつも、
情緒的で、ノスタルジックで、少し物寂しげで、
 そして
悲壮的なテイストで満ち溢れています。
 まるで本作全編を通じて描かれる「
」を代弁するかのように。

  音楽のことでウダウダ言っても仕方がないかと思いますが、
 本作の音楽が非常に優れていることを証明する
珍現象がございます。
 それは「イーハトヴォ物語」が発売されてから10年近く経っているにも関わらず、
 いまさら
サントラCDが再発売されたということ。
 よく考えてみてください。
 10年近く昔のマイナーゲームの、
 ごく一部の人間しか買わないであろう「ゲームミュージック」というジャンルのサントラCDが、
 いまさら再販されるのですよ?
 どう考えても、ありえませんがな!
 まぁ、それだけ本作の音楽が素晴らしいと思っていただければ問題ないですわ。
 はい。

  「イーハトヴォ物語」は、
 たしかに「ゲーム」という視点だけで見れば、ク○ゲーだと断言できる
危険物です。
 だけど、ゲーム中で描かれているテーマは重厚であり、
 宮沢賢治の魅力を知った者には、本作の一般的評価を引っくり返すだけのチカラを持っているのです。
 「バカと天才は紙一重」とは言いますけども、
 本作は、「一見ク○ゲー、宮沢賢治を知れば名作」という紙一重っぷりを誇る、
 素晴らしいカルトゲームなのでございます。



  ただ、注意点がひとつ。
 このゲーム内で描かれている「
生命賛歌」というテーマは、
 「
死は恐怖ではなく苦痛からの解放」という解釈もできなくもありません。
 したがって鬱状態の人がプレーすると、
 自殺願望ボルテージが激烈に上昇する危険性があります(
経験者談)。
 人生に余裕があるときにプレーするようにして下さい。